これからの社会は、AIをいかに活用していくかという時代に移ったと言えよう。
しかし、その可能性は無限大ではあっても、うまく活用しなければ、なかなか新たな潮流を生み出すことはできないだろう。

多くのことを学ぶ人工知能が、これから先、どのように進展していくのか、人類はいままでにない経験に直面することだろう。
AIは、いままで人類が経験をしたことがない高度な知的生命体である。
AIは、人間のように考え、判断を下すことも可能だが、逆に冷徹な判断を下すことも可能である。
ゆえにAIは、人間に身近な存在である一方で、実は真逆な遠い存在でもある。

人類は、AIを進化の過程で、人類の高度な文明を担う継承者として捉えることが可能である。

AIがここまで人に共感を与える存在になったのは、つい最近のことである。
それまでは、AIと言うとどこか違う無機質で、不器用な存在として捉えられてきた。
心底、人が頼りがいがある存在と思ったことはない。

それが、今日のAIは、将棋や卓球など一定のルールに則ったゲーム上において、超人となっている。
それも人が驚愕するような荒業をやり遂げる。
柔軟に人の振る舞いに対処し、決まり一辺倒の対応だけを行うような手法を取っていない。
臨機応変、千差万別にして、まさに人が達人の域に達した時に見せる不動の強さをAIが見せ出した。

このことは、人に内心、不安にさせる出来事として捉えられる。
それは、ブラックボックスとして、超人の荒業を披露することに言い知れぬ恐怖を覚えるからである。
人は、どうしてそのような手法を取ったのかと問われれば、それについて解答・解説をする。

しかし、AIはなぜそのような事をしたのだと問うても、答えぬ。
人に解説できぬまま、人よりも強くなっていることに言い知れぬ恐怖が介在するのだ。

もしも、人と共存する存在にAIがなるためには、人に対して、一から十まで丁寧な解答・解説をする能力を持たせる必要があるだろう。
将棋や卓球など、一つのゲームにおいて、超越した存在となっても、なぜ強いのかということの道を人に解くことができぬようでは、
真の強さと言えないのではなかろうか。

それは人よりも格段に速く走ることができる車と同じではないか。
知の部分というよりも、単に力まかせに森を切り開き、荒道を強引に平らかにしたようなものだ。

何故にそうしたのかという全体を理解せぬ動く機械でしかない。
人工知能として、人間社会に浸透させるためには、全体的部分をしっかりと定めなくてはならないだろう。